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故吉田人形連追吊記念碑と神社跡、下小見集会所(小見、普門寺跡)

2011年04月14日

小見地区に神社らしき祠があったので、行ってみたら、祠の隣に何かの記念碑があった。

気になったので、田沼町史を図書館で読んで見たら、この場所は普門寺のあった場所だというのが分かった。
そして、近所の農作業をしているご老人にも聞いてみたところ、この祠は小見天満宮の祠だったいうのも分かった。

小見天満宮は以前ここにあった、普門寺とともに。

それなので、以前はもっと大きな敷地であったというのも分かったのである。

昔のこの地域はどうなっていたのか何となくではあるがわかってうれしいものである。



最初はこの地に吉田という高名な人がいて、その記念碑だと思っていた。故吉田と書いてあったからだ。



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故吉田人形連追吊記念碑と書いてあった。そして横には下小見講中と書いてあった。



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記念碑の裏には下小見講の6人の名前が刻んであった。

具体的に書くと、「小見浩次郎、金子忠吉、津久井金次郎、金子忠太郎、金子米太郎、金子延三郎」

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そして、「丈夫山上車連」「明治43年2月連之」と締めくくってあった。


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何の意味か分からなかったので、近所の人に聞いてみたが、わからないと言われた。

少し離れた畑でご老人が農作業をされていたので聞いてみることにした。

ご老人曰く、以前この辺りで人形芝居をやっていた人たちがいたという話は聞いたことがあり、その記念碑だろうとおっしゃっていた。

娯楽の少なかった当時は、人形劇はとても人気があったのだろう。小見地域には小見という名字はあまり聞いたことがないから別の地域の人だったのだろうか?小見に住んでいたから小見と名乗っていたのか?田沼町史にも載ってなく、地元の郷土史家の人にも聞いてみたが、もう史料が残っていないようである。

ご老人もおそらく子供の頃にその話を聞いたのだろう。明治の頃の田沼の様子ももうわからなくなってきている。


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ついでにこの祠は、小見天満宮が移る前の祠だとおっしゃっていた。小見天満宮は以前はここにあった。


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移った後も大切に祭られてあった。中に鏡はやはりなかった。


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しかし、建物を見ているとさほど古くはなく、移動したあとも神様を祭ってあったような気がした。

そして、田沼町史で調べて見たところ、ここは普門寺跡地だというのも分かった。

おそらくこの辺りは今よりも広い敷地で、寺社があったかもしれない。今の小見天満宮辺りまで普門寺と天満宮の敷地があったのかも知れない。それだとすると、かなり大きな敷地になるのでそれではないとも思う。小見地域は養蚕が盛んだった。そして小見天満宮を厚く信仰し養蚕額を奉納したので、史料が残っていると思う。詳しく調べてみたい。


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となりは小見集会所がある。そこからは小見天満宮も見える。

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小さな集会所だが、近所の子供たちが走り回って遊んでいた。子供のたちの集会所でもある。

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この通りは交通量がかなり増えてきたと感じる。どまんなかたぬまの影響もあるだろう。
この道路の田園地帯は夏になると、水田できれいな風景になる

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以前まで、この地域は旧佐野だと思っていた。この集会所が境になっているようで、ここ越えると旧佐野市になる。

それなので、身近な地域ではあったが、写真を撮りに行くのが今くらいになってしまった。

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道路も舗装され、綺麗になっていた。この道は佐野日大高校や、佐野松桜高校の学生たちがよく通る。
旧田沼町の象徴でもあるどまんなかたぬまが遠くに見える。



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ついでに田沼町史は図書館に置いてあるが、インターネット古本で買うと一冊一万円くらいもする貴重な史料となっている。



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